インド叙事詩「マハーバーラタ」
  これは、太陽のごとく燦然たるナラ王と、月も息を呑む美しき姫との、悲壮なる愛の物語。  
恋

 ふたりの恋のはじまりは、人々の口を立ち上る互いの噂からでありました。顔も知らぬ幻の相手に、恋情を抱くようになっていたナラ王はある日、たまらず姫の宮殿の近くの森にまで足を運びます。
 そこで戯れに捕らえたのが、縁結びのハンサ鳥でした。命乞いするその鳥を放してやりますと、ハンサ鳥はあくる日から、恋するふたりの間を繁く飛び交うようになりました。愛を歌う鳥によって、ふたりの恋慕の情は、病と紛うほどに燃え上がったのです。

  そんな折、恋に病む娘のために、父王は「婿選び式」を催します。誰よりも激しい恋心を携えて、ナラ王は式に向かいますが、彼は道中、四人の神々に姫との仲をとりもつように命じられてしまうのです。心から焦がれている姫との初対面の場で、立派にその役目を果たそうとするナラ王。
「どうかこの神々の中から、婿を選びますよう」
  ショックを隠せぬ姫は、涙をこぼし首を振ります。
「王よ。わたくしがどれほどそなたをお慕いしていたことか。わたくしは、ただ、そなたにお会いしとうございました。わたくしを袖になさるのならば、この命などいりませぬ」

  愛にくじけそうになる神への忠誠心を、必死に繋ごうとするナラ王。神々は顔を見合わせ、ため息をついて姫に向き直ります。
「我らとナラ王が、同じ姿で現れよう。もしもそなたが、風貌に惑わされず王を見分けるのならば、夫婦になるがよい」
  五人の「ナラ王」を前に、姫は痛ましいほど真剣に祈りを捧げますが、どうしても見分けがつきません。ところが、あまりに切実なおもざしが、ついに神々の御心を変えたのです。
  姫が目の当たりにしたのは、大地から浮かび、必死にナラ王との区別を見せんとする四人の神々の姿。
  こうして姫は、神々の祝福のうちに、めでたくナラ王を婿に選び取るのでした。

破滅

 しかし、陰で、それを快く思わぬ輩がおりました。姫をひそかに花嫁に迎えようと目論んでいた、魔王です。
 嫉妬に狂った魔王は、取り憑く隙を狙って執拗にナラ王を追い続けました。そしてついに十二年目、魔王に呪いをかけられたナラ王は、熱にうかされたように賭博を続けるようになってしまうのです。いとしい姫の声さえも振り払い、勝負にことごとく敗北した王は、ついには城を出て行ったのでした。

 姫は、涙に暮れながらも、ナラ王を信じ愛し抜く決意を固め、着の身着のまま、ナラ王に従います。ふたりは水と木の実だけで幾日も飢えをしのいでおりました。
 しかしある日ナラ王は、暗い森の掘立小屋に姫を置き去ります。そう、ナラ王には「離別の呪い」がかけられていたのです。別れに心を掻きたてられるナラ王の足を、それでも姫への深い愛情がぐいと引き止めました。すこやかな寝顔を見て涙にむせびながら、呪いによって心が真っ二つに裂かれ、愛情をまっとうできないナラ王は、身を切られる想いで、とうとう妻を森に打ち捨ててしまうのです。

 捨てられた姫を待っていたのは、壮絶な運命。大蛇や暴れ狂う象の大群から逃げまどい、幾月も経てようやく森を抜け、美しい都の王家に救い出されたとき、姫の心は恐怖とかなしみに壊れかけておりました。

 一方、ナラ王は、とある国の御者として仕えておりました。しかし、誰も彼をナラ王と気づく者はありません。ナラ王はその美しい風貌を失い、醜男と成り果てていたのです。
 しかし、これは取り憑いた魔王を引き剥がすために、自ら飲んだ毒による作用でした。醜いナラ王のなかで今、魔王は悶絶している最中なのです。
 こうして仕事に励むナラ王ですが、妻のすべてが片時も心を離れません。罪の記憶が、そして姫への痛切な愛情が、ナラ王を苛み続けておりました。

涙

さて、長い年月が経ち、ついに父王の送り出したバラモン(聖職者)によって、姫は探し出されます。
 すぐさまナラ王探しを命じられたバラモンは、姫に言われたとおり、国中の男子という男子に向けて、「いとしい妻を森に打ち捨てたのは何ゆえ」という問いを投げて回りました。
 そして、たった一人、その問いに答えた御者がおりました。
「心美しき貞女は、神々の護りを受けること紛れもなし。王位を奪われ逆境に苦しみながら、妻を案じて身を焦がす夫を、憎みたまうな。」

 この男こそ、醜い姿に身を隠したナラ王だったのです。
 その報告を聞いた姫は、彼を呼び寄せるための策を講じます。それは、「二度目の婿選び式を催す」という、偽の御触れでした。

 その噂を耳にしたナラ王は、せく心を止められず、夢中で馬を駆ります。その道中で、とうとうナラ王のからだから、魔王が毒を吐きながら逃げ出ました。そしてナラ王は、はるか遠い姫の待つ城まで、たった一日でたどり着くのでした。

 しかし、ナラ王は姫への罪の意識から、身を明かすことができません。婿選びに参列する王のお供として身の上を隠すナラ王。姫は集い来る面々の中に、ナラ王の姿を探しますが、どうしても見当たりません。
 姫は下女を遣って彼らに問答します。口を閉ざす御者に対し、下女はあの問いを投げかけました。
「姫がこう問うてございます。『いとしい妻を森に打ち捨てるとしたら、それは何ゆえ』と」
 すると、御者はふいに顔を歪め、苦しそうに言葉を区切りながら答えました。
「たとえ……。たとえ苦境に陥ろうとも。心美しき貞女は、神々の護りを受けること紛れもなし。王位を奪われ逆境に苦しみながら、妻を案じて身を焦がす夫を、憎みたまうな」
 そう言うと、かなしみのナラ王は、嗚咽をこらえきれず肩を震わすのでした。

 その後も彼の動向を見守るように命じられた下女は、彼こそがナラ王であるという証の数々を目撃します。
 彼が戸に近づくと、戸のほうが隙を広げ、水がめに目を遣ると、水がなみなみと満たされ、枯れ草を日向にかざすと、火が燃え上がったのです。この力は、遠き日に神々の祝福によって与えられた王の力。
  そして、彼の調理した肉をひそかに姫が食すと、それはあまりにもなつかしいナラ王自慢の手料理の味でした。

喝采

 確信を持った姫は、ついに御者を宮殿に呼びつけます。ふたりが運命を別にした日から、実に四年の歳月が経っておりました。

 変わり果てた姿のナラ王を前に、姫は自分の口で、長き問いを投げかけます。
「御者よ、『そなたとともにあらん』と誓ったいとしい妻を、森に打ち捨てる夫がいるとすれば、それは何ゆえでしょうか」
 姫の両眼には涙があふれておりましたが、拭いもせず、姫は御者を食い入るように見つめます。
「姫よ。これまでの不幸は皆、我に魔王が取り憑いていたため。しかし今、我の意志の力とそなたの祈りによって、呪いは去ったのだ。」
 そう言うと、ナラ王は元の麗しい姿を取り戻したのです。

 天からは花の雨が舞い、神々の打ち鳴らす鼓、笛の音が響き渡りました。
 積年の想いをぶつけるかのように、王にわっとすがりつく姫。ナラ王も胸がつぶれるほどの涙にむせびながら、いとしくてたまらなかった妻を、ついにその腕に掻き抱くのでした。

 町は憂いが去り、人々の歓喜の涙と喝采に満ちあふれました。ナラ王は改めて大軍勢を率い、仰々しく姫を迎えに上がります。
 そしてふたりは生涯、さも愉悦の園に遊ぶ神々のごとく、喜びに満ちた至福の日々を送るのでした。

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